試し読み 夕暮れ時に見た夢は、絶望の色をしていた。『デジタルリセット』試し読み#5

第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作『デジタルリセット』

書店員さんたちの圧倒的な支持を受けて、第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉を受賞した『デジタルリセット』の冒頭を特別公開。理想の環境を求めて自らの基準にそぐわないものを殺しては次の人生を始める=「リセット」を繰り返す、新たなシリアルキラーの恐怖をご堪能ください!

試し読み 夕暮れ時に見た夢は、絶望の色をしていた。『デジタルリセット』試し読み#5



『デジタルリセット』試し読み#5

その日、孝之が事務所に戻って来たのは午後七時少し前だった。表の駐車場に営業車を停め、そのまま運転席でリクライニングを少し倒し、ヘッドレストに頭を預けて目を閉じ、疲れに身を任せた。全く経験がなかった営業もそろそろ板についてきたのか、疲れが心地良い。あおけの状態で助手席に置いた営業バッグから顧客訪問チェックリストのファイルを取り出し、チェック項目毎に自己採点した。今日回った四件の顧客との会話を思い出してみる。不動産価値のスマートな説明、顧客も大笑いしたユーモアのある返答、顧客の質問に即座に答える専門知識、そして、契約締結。満足のいく一日であった。自己採点結果もほぼ満点である。自己陶酔の湖をしばらく泳いだ後、うっすら目を開けるとセピア色に染まった残照の中、前方の歩道を五歳くらいの男の子を真ん中に、親子三人が手をつないで歩いている。父親はもう一方の手に犬用リードを握り、その先では純白のマルチーズがチョコチョコと親子を先導している。犬の散歩には時刻が遅いので、恐らく家族で夕食にでも行くのだろう。この地域は工業団地を囲むように様々な大型飲食店が出店している。中にはペット同伴可能なガーデンレストランもある。男の子は「Y」の字に両手を広げ、両親がその手をしっかり握っている。男の子が地面をると、両親は両脇から男の子を引っ張り上げ、空中遊泳させた。孝之がまぶたの隙間から、通り過ぎて行く親子の姿を目で追い、三人の笑い声と犬の鳴き声を聞いているうちに、徐々に周囲の光景が全て同じ薄い茶褐色に染まっていった。父親と母親、間に男の子、その足元の犬も、歩道の木々も空も同質の粒子となって一枚の印画紙に焼き付き、動かなくなった。その古ぼけた写真は額に入れられ、イーゼルに立てて展示されている。それを、孝之が手に取ろうとしたが、腰の高さにバリケードテープが張ってあり、それ以上前に進めない。精一杯手を伸ばす。十センチ角の額である。指に挟めば持ち上げられる。後、一センチ。それが届かない。指がつりそうになるが、そのわずかな距離がどうしても届かない。──たかが一センチじゃないか。しかし、その一センチが孝之にとって幸福と絶望の境界であり、永遠に埋まらない空間であった。絶望的な思いになりながらも、むなしく手を伸ばし続ける孝之の右耳の奥に乾いた音が聞こえて来た。コンコン少し間を置いて、コンコンその音は少し強くなった。孝之は目の前の写真を手に入れれば幸せになると信じ込んで、必死で伸ばした手が空中をいている。今度はもっと強く、ドンドンドン振動を伴う音がした。その振動で瞼の裏の光景にヒビが入り、砕け落ちた。ハッと我に返り、運転席側の窓を見ると外に誰か立っている。窓から顔は見えないが、タイトなしちそでの白いブラウスを着て、広く開いた胸元に細いチェーンネックレスがのぞいている。誰? 孝之が顔を確認しようとした時、女性の方がかがんでくれた。社員のまさである。何かしやべっているが密閉された車内では聞こえない。孝之は助手席の営業カバンと上着を手に取って車を降りた。辺りはセピア色の残照から薄い闇になっていたが、駐車場は二基ある外灯で明るい。夜風が孝之の茶色っぽい真直ぐな髪の毛をサラサラと流し、うっすら汗の浮いた顔をでるとヒンヤリ感じた。三十分近く車内で寝ていたようだ。「お帰りなさい。随分とお疲れの様子ね」由香がニコッと微笑んで首を横に傾けた。傾けた方向にボブカットの髪がフワリと揺れ、かすかな香水の香りがした。「ウトウトしながら、夢の中で営業日報を書いていたよ」寝起きで気の利いた返事ができない。「ウトウト? 爆睡よ、爆睡。エンジン音がしたんで、タカさんが帰社したって分かってたんだけど、いつまで経っても降りて来ないんだから」由香はエンジンを切った車内に長時間とどまる孝之を心配して、様子を見に来たのだ。孝之はスーツの上着を右肩に掛け、左手に営業カバンを提げて正面玄関に向かって歩いた。後からついてくる由香のパンプスの音がコツコツと聞こえる。由香は広報担当で、亡くなった洋子の部下だった。元々は広告代理店のウェブデザイナーであったが、村岡の誘いで、孝之とほぼ同時期にグレース不動産へ転職して来た。今の所属は西宮営業所だが、会議で本社に来ることもよくある。孝之が背後の由香に向かって顔だけ振り向いて聞いた。「ところで、今日は本社に何の用件だったの?」「広報企画会議よ。各営業所長さん達と打ち合わせ。新しい賃貸物件のサイト用データをもらったり、広告内容の仕込みが中心ね。タカさんが作った業務カレンダーにイベント登録してあるわよ」「ゴメン。見落とし」背後から、ふふふ、と由香の笑い声が聞こえた。勝気な性格の由香らしい、箇条書きの回答だ。広報企画会議は各営業所長や広報担当が本社に集まってネット広告に関する打ち合わせを行う。由香は全社のウェブ系広報の主担当のため毎回出席している。打ち合わせと言うと聞こえは良いが、要はネット上の限られたスペース、写真枚数などリソースの分捕り合戦である。それを仕切るのは由香だ。百戦錬磨の営業相手に、孝之より五歳ほど年下の由香は若過ぎるようだが、全く問題ない。村岡も孝之も適任だと思って任せ切っている。転職した当時、孝之は由香から敬語で話し掛けられ、目上の者に対する儀礼的な気遣いを感じた。「由香さんさぁ、転職同期なんだから、敬語じゃなくていいんじゃない?」と言うと、あっさり、「それもそうね」と、友達言葉で答えた。孝之は今でもそのやり取りを思い出しては可笑おかしくなる。孝之は表扉を開け、閉まらないように身体で押さえ、由香が入るのを待った。由香は孝之の厚意にこたえるように急ぎ足で孝之の前をすり抜けた。エアコンの効いた社内に入った孝之は自席に座り、すぐパソコンの電源を入れた。本社はシステム化の結果、要員が減り、座席が余っている。由香は本社に来た時に使っている、入り口から一番奥の大型の机に戻った。サイトデザインのラフスケッチから制作、各営業所へのレビューも含めて由香が一人で担当しているため、この時期は残業時間がかさむ。由香は机一杯に拡げた資料のうち、整理済み分を束ねながら、孝之を見た。孝之の席は前の列の窓際である。隣の椅子の背もたれに上着を掛け、広い背中が少し前屈みになっている。留守中に届いたメールをチェックしているようだ。由香は残りの会議資料の整理を始めた。各営業所の要望事項をまとめていると、「営業所からのデータの受け取りは終わったの?」目を上げると、一段落着いたらしい孝之が椅子ごと身体を横に向けて由香を見ている。「いいえ、まだよ。賃貸物件の画像データが大きいのよ」由香は資料作成と並行して、別のPCを使って、データのコピーを行っている。「そうかぁ、データの受け渡し方法も考え直さないとなぁ」常に業務改善を考えている孝之らしいことを口にした後、ふと思い出したように言った。「海岸通りと国道のさんに、新しいエスニック風のダイニングバーができたの知ってる?」「知らないわ……でも……車じゃないと行くのに不便な場所ね」由香は内心可笑しかった。──ハッキリと誘えばいいじゃない。今まで何度か孝之に誘われて二人で食事に行ったことがあるが、その都度「食事に行こうよ」のセリフまでのプロセスが同じなのだ。孝之の言うかいわいは海岸沿いの通りにレストランやバーやホテルが並んでおり、カップルがタクシーで行ってそのまま宿泊するコースになっている。孝之がストレートに誘わないのは、孝之なりに気を使っているのだろうが、由香には何となくもどかしい。「じゃあ今度、『飲めない君』誘って、帰りに本社に寄るわ」由香の営業所にお酒の飲めない若手社員がいる。顧客との会食や飲み会の都度、運転手代わりに連れて行かれ、帰りは上司全員を自宅に送り届けた後やっと最後に自宅に戻ることができるのだが、毎回文句も言わずに任務のように同行している。言ってしまってから、由香は胸につかえていたものが流れた反面、由香だけを誘った孝之に対して意地悪な返事をしたことを後悔した。チラッと孝之の顔を見たが、孝之は何食わぬ表情をしている。「『飲めない君』ってよしずみ君だっけ? 彼も来るんだね。いいね。日取り決まったら連絡してね」孝之もメールをチェックしながら、事務的に答えた。──大人なんだ。「私からメールするわね。あてさきは社用、個人どちらがいい?」「ん? どちらでもいいよ。ところで、今日はまだ仕事?」孝之の素っ気ない返事で、由香の独り相撲は終わった。「そうね、かなりかかりそう。明日あしたから当分の間、本社に来て作業するわ」由香が営業車で帰った時には、九時を回っていた。一人残った孝之は、顧客からのメールへの返信や、各営業所の業績資料を作成した。近隣地域の不動産価格の調査を済ませると時刻は十一時前であった。孝之は両手を頭上に突き上げると、椅子に座ったまま、「うー」声を出して上体を反らした。今日のノルマをやり終えた充実感に満ちている。軽く目をつぶって首を二回程回すと、しばらくそのまま動かなかった。やがて、目をパッチリ開け、勢いよく立ち上がり帰り仕度を始めた。身の回りの物を通勤バッグに収めて、窓や扉、社内書類キャビネの施錠確認をして回り、火の元の確認をした。長い廊下の突き当たりが裏の倉庫との出入り口である。孝之が廊下の硬い床を革靴で歩く音がカツカツと建屋に響く。突き当たりのドアを開けた。倉庫の中は真っ暗であるが、外部との出入り口近くにある冷凍室からはブーンと低い振動音が聞こえて来る。孝之はしばらく、暗闇に響く冷凍室の振動音を聞いていた。その夜、人気のなくなった「グレース不動産」本社社屋の冷凍室からは何か異様な音がしていた。固い物同士が擦れ合うような音がシュッ、シュッ、と二~三秒間隔で、規則正しく、深夜まで続いていた。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介・あらすじ



デジタルリセット著者 秋津 朗定価: 792円(本体720円+税)発売日:2021年12月21日第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作!許すのは5回まで。次は即リセット――。理想の環境を求めるその男は、自らの基準にそぐわない人間や動物を殺しては、別の土地で新たな人生を始める「リセット」を繰り返していた。一方、フリープログラマーの相川譲治は、シングルマザーの姉親子の失踪に気付く。姉と同居していたはずの男の行方を追うが……。デジタル社会に警鐘を鳴らすシリアルキラーが誕生! 第41回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈読者賞〉受賞作。詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322107000431/amazonページはこちら



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