【ウマ娘】“皇帝”シンボリルドルフの現役時代を紹介。「その馬には絶対がある」とまで言われたほど強すぎたためヒール役になったことも

サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2021年10月28日に和装仕様の育成ウマ娘ふたりが新たに実装された。本記事では、そのうちのひとり“★3[皓月の弓取り]シンボリルドルフ”の能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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※同時に実装されたゴールドシチーに関する元ネタ記事はこちら

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  • 競走馬のシンボリルドルフ
  • シンボリルドルフの現役生活(馬齢表記は現在のものに統一)
  • 著者近況:ギャルソン屋城
  • 『ウマ娘』注目記事
  • 『ウマ娘』無課金&微課金の方向け、育成攻略&解説シリーズ
  • 『ウマ娘』のシンボリルドルフ

    ●声:田所あずさ●誕生日:3月13日●身長:165センチ●体重:かなり理想的●スリーサイズ:B86、W59、H85

    別名“皇帝”。トレセン学園の生徒会長を務め、レースでの実力、政治力、人格はどれも飛び抜けている。エゴイストではなく、常に己が正しい規範となることを意識し、ウマ娘誰もが幸福になれる時代を目指す理想主義者。トウカイテイオーから慕われている。

    トレセン学園で生徒会長を務める、ウマ娘の頂点に立つウマ娘。東京レース場には彼女の銅像があり、テレビアニメSeason1第1話の冒頭のシーンでも描かれている。

    生真面目で立派な風格の持ち主で、イベント名もなぜかゴツい漢字が並ぶ四字熟語が多い。しかしおもしろみのないウマ娘と思われたくないらしく、ユニークさを醸し出そうとダジャレ、オヤジギャグの類いを連発するところがある。一方で、強靱な精神力の持ち主でもあるため、そのダジャレで周囲が凍り付いたり引いたりしても気づかないという負の面も……。

    会長としてトレセン学園運営の実務などをこなす一方、外国語にも堪能な様子。テレビアニメSeason1ではフランスウマ娘ブロワイエの通訳をしていた。ちなみにリアルではアメリカへの遠征経験がある。

    勝負服は、リアルのカラーリング(緑地、白襷、袖赤一本輪)に近代の皇帝をイメージしたらしい意匠(飾緒や肩章など)を取り入れた飾りを配している。また、胸元にクラシック3冠の、腰に残りのGI4勝(天皇賞春、ジャパンカップ、有馬記念×2)ぶんの勲章をつけている。額にひと筋垂れた白髪は、競走馬ルドルフの額にあった三日月型の模様から来ているのだろう。

    『ウマ娘』ではトウカイテイオーにとても慕われており、またシンボリルドルフもテイオーにはとことん甘いのだが、リアルでは実の親子であり、その関係性が反映されていると思われる。

    そのテイオーを演じる声優のMachicoさんは週刊ファミ通のインタビューにて、「シンボリルドルフは発音しづらくて声優泣かせの名前」と語っていた。じつは、“ルドルフ”の発音についてはMachicoさんたちだけでなく、元関西テレビの杉本清氏らレジェンド級の競馬実況アナウンサーたちをもってしてもだいぶ手こずっていたという逸話も残っており、こんな面においても「さすが皇帝……!」なのであった。

    [皓月の弓取り]シンボリルドルフは、先行に適した固有スキルやレアスキルを持つ。固有スキルは、“最終コーナー以降に先団で詰め寄られると闘志を燃やして速度を上げる”という能力。また、先行回復スキルの“余裕綽々”も獲得できる。

    おもしろいのが、秋ウマ娘○の上位スキルである“初嵐”を持つこと。“秋のレースが得意になり、スピードとパワーが上昇する”という効果で、チャンピオンズミーティングなどレースの季節が秋と確定している場合だと、確定で発動させられるので強そうだ。

    競走馬のシンボリルドルフ

    1981年(昭和56年)3月13日、北海道沙流郡門別町(現日高町)のシンボリ牧場で生まれる。父はシンボリ牧場の看板スター、パーソロン(父マイリージャン)、母はスイートルナ(父スピードシンボリ)。“ルドルフ”の名の由来は、かのハプスブルク家が生んだ最初のドイツ王にして神聖ローマ帝国の“皇帝”(正式には戴冠していないが)、ルドルフ1世から。

    4番仔として生まれたシンボリルドルフはたぎる闘志を内に秘めるタイプだったようで、受け継いだ潜在能力をフルに発揮していく。その天才ぶりは、生まれた瞬間に早くも見られている。

    一般的に、生まれてきたサラブレッドは1時間前後で自力で立ち上がり、母馬のおっぱいを吸いに行く。早くても30分と言われているが、シンボリルドルフはわずか20分で立ち上がったという。身体能力も高く、まさに“神童”であった。

    なお、前述の通り額に三日月型の模様があり、そのことから牧場では“ルナ”と呼ばれていた。かわいい。『ウマ娘』でも、幼名でルナと呼ばれていたというくだりがある。

    馬体重はデビューから引退時まで、おおむね470~480キロ程度で安定していた。日本で走った15戦中7戦が474キロでキープされており、まさに“かなり理想的”。賢い馬は自分で食事量を調整して体重を維持するそうだが、さすがの調整力である。

    賢い馬ではあったが、性格については後述する母からの遺伝もあってかなり荒かったようで、厩舎ではよく暴れて“ライオン”と呼ばれていたという。もっとも、厩舎から出ると暴れることはなく、その点でも非常に賢かったと言える。ただし、レース中に並びかけてきたビゼンニシキ(ダイタクヘリオスの父でもある)を、身体をぶつけながら抜かせまいとしたりするなど、気の強いところは随所で見せていた。

    レースでは“皇帝”としての強さ、格を示すために、あえて毎回“王道”である先行策が指示されていたらしい。じつはどんな展開でも対応できる柔軟さを持っていて、実際にも行き遅れたダービーではまくり差しを決めているし、日経賞では逃げて勝ったりもしている。

    父パーソロンはアイルランド出身。現役引退後にシンボリ牧場の2代目和田共弘氏、メジロ牧場の北野豊吉氏のふたりが共同購入して日本へ輸入された。現役時代は祖父マイリージャンと同様、早熟の短距離馬であったため、中長距離偏重だった日本競馬ではその力を疑問視する向きもあったようだが、初年度産駒から順調に重賞勝利馬を出す。

    2年目の産駒からは当時3200メートル戦だった天皇賞(秋)と安田記念を勝ったメジロアサマ、さらに4年目のカネヒムロから7年目のトウコウエルザまで、産駒がオークスを4連覇するなどとんでもない実績を残していくのである。その極めつけが1981年度産駒の3冠馬シンボリルドルフというわけだ。

    また、ルドルフ以外の代表産駒には1978年のダービー馬サクラショウリ(翌年には宝塚記念も勝っている)がいる。1971年、76年にはリーディングサイアーに輝いた。

    母スイートルナはシンボリ牧場の生産馬で、その父はスピードシンボリ。スピードシンボリは日本で初めて欧州の最高峰に位置するレースであるキングジョージVI世&クイーンエリザベスステークスや凱旋門賞に出走し、国内でも天皇賞(春)、宝塚記念、有馬記念2勝などを記録した超名馬である。

    “シンボリ牧場の誇りが詰まった大事な血統”と評価されていたスイートルナだが、産駒には高い潜在能力とともに極度の気性難も遺伝してしまい、パーソロンとの仔はほかに4頭産んでいるが、いずれも大成することはできなかった。

    ちなみに、『ウマ娘』の世界における“三女神”は、現実世界の競馬の3大始祖がモチーフと思われる。世界のサラブレッドの父系をさかのぼると、ダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアンの3頭に行き着くことから、3大始祖と言われているのだ。

    シンボリルドルフが属するのはそのうちのバイアリーターク系だが、じつはマイナーな血統。現在は世界的に見ても90%以上がダーレーアラビアン由来となり、父系としてのバイアリーターク系とゴドルフィンアラビアン系は消滅の危機に瀕している。

    とくにバイアリーターク系の種牡馬は、日本ではメジロマックイーンの仔ギンザグリングラス、そしてクラウドファンディングで種牡馬入りしたトウカイテイオーの仔クワイトファインの2頭を残すのみとなっている。彼らの血がつながることに期待したい。

    シンボリルドルフの現役生活(馬齢表記は現在のものに統一)

    ある男が言った。「競馬に絶対はないが、“その馬”には絶対がある」勝利より、たった3度の敗北を語りたくなる馬

    (※JRA 2013年ジャパンカップのテレビCMより)

    千葉のシンボリ牧場でみっちりと調教され、2歳にして他の馬を圧倒するほどの風格を備えるようになったシンボリルドルフは、美浦トレセンの野平祐二調教師のもとに預けられる。

    【ウマ娘】“皇帝”シンボリルドルフの現役時代を紹介。「その馬には絶対がある」とまで言われたほど強すぎたためヒール役になったことも

    野平師は騎手としてはスピードシンボリなどで8大競走(※)通算8勝、通算1339勝、調教師としても通算402勝を挙げ“ミスター競馬”と呼ばれた名伯楽。また、ルドルフの調教助手は、後に調教師として11度もの最多勝利、歴代ふたり目の通算1500勝も達成した藤沢和雄氏。さらに主戦騎手は、通算2943勝(2021年10月28日時点で武豊騎手に次ぐ歴代2位)の岡部幸雄氏と、まさに皇帝の脇を固めるにふさわしい陣容だった。

    ちなみに、競走馬の調教は調教助手や厩舎所属の騎手がつけることが一般的だが、シンボリルドルフの調教は野平師みずからが行っていたそうだ。ここからも期待度の高さがうかがえる。

    ※8大競走……皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス、天皇賞(春)、天皇賞(秋)、有馬記念のことで、1984年にグレード制が始まるまでは日本でもっとも格式の高いレースとされていた。宝塚記念やエリザベス女王杯、ジャパンカップなどを加えて10大競走と呼ぶこともあった。

    1983年7月23日、新潟競馬場芝1000メートルの新馬戦でデビュー。不良馬場で道中内に刺さりながらも楽勝で初勝利を挙げる。

    続く2戦目のいちょう特別(現サウジアラビアRC。育成シナリオでも目標レースとなっている)、3戦目のオープン(ともに東京芝1600メートル)もステッキを使わず“持ったまま”で完勝。陣営はデビュー前からクラシック制覇を見据えており、鞍上の岡部騎手もこの3戦でクラシックを意識した騎乗をしていた。生まれたころからウマ娘としての英才教育を受けていたという『ウマ娘』の設定は、こういったところが由来となっているのだろう。

    また、3戦目に朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)ではなくオープン戦を選んだのは、同日に行われるジャパンカップのために来日した海外の競馬関係者に向けてのデモンストレーションのためだったという。

    年明け初戦は弥生賞。ここで立ちはだかったのが、こちらもデビューから無敗の連勝を続けてきたビゼンニシキである。そしてなんと、ビゼンニシキの主戦もシンボリルドルフと同じ岡部騎手だったのだ。実績から言えば共同通信杯を勝利していたビゼンニシキのほうが上だったが、岡部騎手はシンボリルドルフを選ぶ。レースはこの2頭の一騎打ちとなるも、驚異的な勝負根性を見せた2番人気シンボリルドルフ(馬体重は前走から18キロ増!)が1番人気ビゼンニシキに競り勝った。

    皐月賞では1番人気シンボリルドルフ、2番人気ビゼンニシキと立場が逆転。ダイタクヘリオスの父でもあるビゼンニシキは血統的に、ダービーや菊花賞などの長いところはもたないと見られており、陣営は皐月賞制覇になみなみならぬ覚悟で臨んでいた。

    そして弥生賞に続き、ここでも2頭の激しいデッドヒートがくり広げられるが、異次元の闘志を見せたシンボリルドルフが馬体をぶつけながら抜け出して勝利する。

    表彰式では、岡部騎手が3冠に向けて“まず1冠”ということを示すため、指を1本天に突き上げるというパフォーマンスを行い話題となった。このポーズは、2005年にディープインパクトに騎乗した武豊騎手が同じパフォーマンスを行ったことで、20年以上の時を超え再び脚光を浴びることになる。

    続くダービーでは、もはやシンボリルドルフのライバルはいなかった。単勝1.3倍の圧倒的人気からも、ファンの見立てが見て取れる。道中は行きっぷりが悪く、一瞬ヒヤっとさせるも危なげなく抜け出して勝利。

    このレースでは皐月賞の結果からルドルフとビゼンニシキが人気で、2頭の連勝複式馬券(現在の枠連)に買い目が集中。オッズは低いものの、儲かる可能性が非常に高いということから“銀行馬券”と呼ばれた。しかし、このレースでビゼンニシキは14着と大敗。JRAへの預金は返ってこなかったのである。

    1984年 日本ダービー(GⅠ) | シンボリルドルフ | JRA公式

    さて、ルドルフはあまりの強さに、海外遠征の計画も持ち上がった。しかし脚の不調や条件が整わなかったこともあって中止となり、あらためてクラシック3冠を目指すことに。千葉のシンボリ牧場でみっちり乗り込まれることとなった。これは、“外厩”方式の先駆けとも言われている。

    かくてルドルフは、秋初戦のセントライト記念(※)をレコード勝ちし、無敗のまま菊花賞の舞台へと歩を進める。

    ※セントライト記念……1941年、日本初のクラシック3冠を達成した名馬セントライトの偉業を称えて名付けられたレース(格付けはGII)。菊花賞の前哨戦に位置づけられており、3着以内に入ると菊花賞の優先出走権が与えられる。『ウマ娘』にも存在するレースで、限定ミッションの課題にもなっていた。

    今回もまた、道中は中団でじっくりかまえて最後の直線で抜け出す王道競馬を貫く岡部騎手。ゴール前、7番人気のゴールドウェイに詰め寄られたかに見えたが、けっきょく4分の3馬身差をつけて勝利する。8戦全勝、無敗の3冠馬誕生である。

    なお、ゲームでは天気が曇りの状態でクラシック3冠を達成すると「大輪の花が薄曇りの京都レース場に大きく咲いた!」という特殊実況が流れるが、これは当時テレビ中継の実況を担当した関西テレビ杉本清アナウンサーによる「赤い大輪が薄曇りの京都競馬場に大きく咲いた!」というフレーズのオマージュである。

    【シンボリルドルフ】1984年 菊花賞 史上初の無敗三冠制覇 実況:杉本清《Triple Crown #4 Symboli Rudolf》

    なお、表彰式では皐月賞同様、ダービーでは“2冠”で2本、菊花賞では“3冠”で3本指を突き上げるパフォーマンスが行われた。

    つぎなる戦いは、1年前のクラシック3冠馬ミスターシービーとの初対決となるジャパンカップ。当時は菊花賞からわずか2週間後というきびしいスケジュールだった。

    このジャパンカップは、外国馬を招く招待競争だが、過去3回の開催では、いずれも日本馬が苦汁を飲まされていた。しかしこの年は、前年の3冠馬ミスターシービーと、この年の3冠馬シンボリルドルフが参戦するとあって、ファンのボルテージも高まっていた。

    1番人気は、前走の天皇賞(秋)を勝利したミスターシービー。シンボリルドルフは並み居る外国馬と人気を分け合う4番人気だった。

    しかしレースは予期しない展開となった。“第3の男”……と言うにもいささか伏兵に過ぎる10番人気カツラギエースが大逃げを打ち、そのまま逃げ切ってしまったのである。シンボリルドルフは直線で必死に追うもおよばず3着。9戦目にして初めての敗北を味わうこととなった。ミスターシービーは見せ場も作れず10着に沈んでいる。

    大波乱の後遺症が心配されたシンボリルドルフだったが、次戦の有馬記念できっちりと借りを返す。「二度同じことはやらせない」とカツラギエースをマークして進み、粘る同馬を振り切って2馬身差、レコードタイムのおまけつきで完勝。4冠達成である。ミスターシービーはそこからさらに1と1/2馬身差の3着に終わる。

    国内での格付けにもはや意味はない。昨年は断念した海外遠征を、夏にあらためて行うことが決まったシンボリルドルフは、春は天皇賞(春)を目標に調教が進められた。初戦の日経賞はなんと単勝1.0倍。当たっても買ったぶんしか戻ってこない、いわゆる“元返し”だ。しかしそんな評価を裏切ることなく、悠々と馬なりのまま逃げ切り勝利を収める。

    天皇賞(春)は、ミスターシービーとの3度目の直接対決。先輩として3連敗は避けたいミスターシービー陣営は、向こう正面の坂の上からスパートをかけるという、菊花賞でも見せた奇襲作戦に出る。しかしシンボリルドルフは奇襲などものともせず、いつもの王道競馬を貫きながらあっさり抜き返して5冠達成。ミスターシービーはその後故障で引退することとなり、結果的にこれが最後のレースとなった。

    5月に入ると、この年のダービーを勝った同じ馬主のシリウスシンボリとともにキングジョージVI世&クイーンエリザベスステークス(※)に出走することが本決まりとなり、最後のステップレースとして宝塚記念が選ばれる。

    ※当時はダイアモンド会社の世界的大手デビアスがスポンサーだったので、“キングジョージVI世&クイーンエリザベスダイアモンドステークス”という名前だった。

    ところが、レース前日になって前脚にハ行(※)を発症。宝塚記念の出走だけでなく、海外遠征そのものが白紙になってしまう。遠征はシリウスシンボリが単独で行い、2年にわたりじつに14ものレースを転戦した。凱旋門賞ではキングヘイローの父ダンシングブレーヴの14着に敗れている。

    ※ハ行……馬の歩様に異常をきたしている状態のこと。原因はさまざまだが、場合によっては屈腱炎などが発症していることもある。

    一時は引退も示唆されたシンボリルドルフだが、陣営が必死に立て直し、天皇賞(秋)になんとか間に合わせた。しかし久々のうえに急仕上げがたたってか、大外枠からスタートで出遅れてしまう。

    それでもすぐに先団に取り付き、いつもの王道競馬を展開。それを観て「やはり皇帝」と誰もが勝利を確信したその瞬間、大外から1頭、とんでもない脚で飛び込んできた。それまでの7勝のうち、芝のレースで勝ったのは新馬戦だけでダート馬だと思われていた13番人気の条件馬、ギャロップダイナである。この衝撃を堺正幸アナウンサーは「あっと驚くギャロップダイナ」という実況で伝えた。

    生涯2敗目をまさかの形で喫したものの内容は決して悪くなく、シンボリルドルフは次戦のジャパンカップでも変わらず1番人気に支持される。レース展開は以下略。重馬場もなんのその、例年よりもやや格落ちと見られていた海外勢をギャロップダイナもろとも退けて、6冠目を手に入れた。

    なお、このレースでは地方競馬代表の11番人気ロッキータイガーが2着に入り、史上初の日本馬ワンツーを決めている。表彰式では岡部騎手がとうとう手綱から手を離し、両手で“6冠”が示されることとなった。

    これを受け、三度海外遠征の計画が持ち上がる。

    有馬記念は国内ラストランと位置づけられた。話題は、ルドルフの先輩3冠馬であるシンザンの仔で、皐月賞&菊花賞を制したミホシンザンが、どこまでシンボリルドルフの牙城に迫れるかだった。

    しかし、あくまで「迫れるか」で、ミホシンザンが勝つとまで考えていた競馬ファンは圧倒的に少数。果たしてレースは皇帝のワンマンショーとなった。いつも通り、好位につけて最後の直線入口で抜け出し、後続を突き放す。若手のホープ、ミホシンザンは2着ながら4馬身もの差をつけられる惨敗を喫した。

    7冠達成という歴史的な瞬間だったが、表彰式でのいつものパフォーマンスは、このときはなぜかなかった。

    1985年 有馬記念(GⅠ) | シンボリルドルフ | JRA公式

    アメリカに渡ったシンボリルドルフは3月29日、カリフォルニア州サンタアニタ競馬場でのGIサンルイレイステークス(※)に出走。ここを皮切りに転戦を行い、最終的に凱旋門賞を目指すというスケジュールだった。

    しかしレース中に左前脚に故障が発生、レースも6着に敗れ志半ばで帰国の途につく。その後も復帰に向けてスタッフが懸命に努力するもかなわず、そのまま引退となった。年末には引退式が行われ、7冠を表す王冠が描かれた“7”番のゼッケンをつけて登場、競馬場に別れを告げた。

    ※現在はGIIIに格下げされ、ハンデ戦となっている。

    16戦13勝、重賞10勝(うちGI7勝)。その強さ、そしてレース運びも“皇帝”の異名にふさわしい堂々としたものだった。それがたたってか、先輩3冠馬のミスターシービーほどファンからの寵愛は受けられなかった。ヒールになるくらい、ルドルフは強かったのだ。もっとも、馬にはそんな外野の話など知ったことではないのだが。文字通り“馬耳東風”である。

    冒頭のジャパンカップのCMで使われた「競馬に絶対はないが、“その馬”には絶対がある。」という台詞は、野平祐二調教師が天皇賞(秋)の敗戦後に語ったとされる言葉である。13の勝利よりも、ジャパンカップ、天皇賞(秋)、サンルイレイステークスと、たった3つの敗戦が“事件”として語られるほどの名馬。それがシンボリルドルフなのだ。

    引退後は種牡馬となり、シンボリ牧場で第2の馬生に入った。

    初年度産駒からトウカイテイオーという大物が輩出され、人気を集めたシンボリルドルフだったが、祖母譲りというか、隠れた気性難が強調されて産駒に遺伝してしまうことが多かったようで、2頭目のGI馬は生まれなかった。2004年で種牡馬を引退し、2010年には千葉のシンボリ牧場に移り翌年30歳で死去した。

    引退から四半世紀以上の時を経て、『ウマ娘』で再び脚光を浴びたシンボリルドルフ。現役時代は、いつも同じ展開で勝つレースぶりがつまらないと言われたり、型破りなレースぶりで話題をさらったミスターシービーに対するヒール役のような扱いを受けたりもした。

    『ウマ娘』では、頼りがいがありつつもダジャレ好きという隙もある親しみやすいキャラクターとして描かれているが、『ウマ娘』での姿を見てから当時のレースを振り返ってみると、また新たな印象を受けるのではないだろうか。まだまだ、競馬ファンの中でルドルフは生き続けるのである。

    著者近況:ギャルソン屋城

    リアル競馬&競馬ゲームファンでもある、週刊ファミ通『ウマ娘』担当ライター。誕生日:9月5日、身長:168センチ、体重:微増(秋の味覚堪能中)。

    好きな馬はミホノブルボン、ツインターボ、タップダンスシチー、デュランダル、スイープトウショウ、ドリームジャーニー、ハープスターなど。どこかで逃げ好きが追込好きになっている……。

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